右手肘橈骨頸部骨折
骨折して手術することになった。
病院にはオヤジが連れて行ってくれた。
最近のオヤジはなんともカッコイイ。どういうカッコよさなのかを表現することが
難しいが、愛を感じるし、またそれを見せないクールなところとも言っておこう。
昔のオヤジは亭主関白の厳格な父で、夜仕事から帰ってくると、「おい!飯!」と言って、
ビールを飲みながら無言でプロ野球を見ていた。母に強く当たり、何もしないオヤジをみて、私は一生父のようにはなりたくないと思っていた。大嫌いだったしろくに口も聞いてない。
そんなオヤジだが、歳を取るにつれてどんどん丸くなり、昔の尖った部分が無くなり、優しさだけが残った。それでかつ、クールなところは残っている。
どう表現したら良いか分からいが、とにかく愛していると言えない、愛していることを表に出さない。でもそれは行動に表れており、言葉とか承認欲求とかではなくて、その愛が伝っているような感じだ。不器用だが心では家族のことを常に思っていて、何かとサラッと行動するクールなオヤジだ。男として最高にかっこいい。
オヤジは昔から今も心配事は直接言ってこない。必ず母を通じて言ってくる。心配していることがダサいと思っている。気づかれたくないのだ。自分のことも一切言わない。自慢話も聞いたこと無いし、弱音を吐いた事もない。それが男だと思っているからだ。
昨年、オヤジは病気になった。病気と闘っているが、弱みを一切見せない。私の骨が折れたときにオヤジは「大丈夫。死にはせんから。」と言ったのだが、自分のことをさておき、私を心配し言ったありきたりなフレーズは、深い愛にあふれていた。
それに比べて自分は男としてダサい。もっとオヤジのような男になりたいと思うようになった。
利き手を負傷し、自由を失っている中で、いかに何気ない日常が幸せなのか分かる。
病院での食事、集合部屋のベットから解放され、家でご飯と温かいお味噌汁を飲んだ時、この上ない幸せを感じた。いつもの布団で寝れることがいかに幸せか。
ありがたみは有難味と書く。
有ることが難しい味。つまり、幸せはここに有るのにそれに気が付くのは難しいということであろう。
欲は人を狂わすというが、人の欲というのは凄まじいとも感じた。そして麻痺していく。
美味しいものが普通になり、もっと美味しいものを食べたいと思う。
人は待つということ嫌う。待てない。でも待つしかない時もある。
欲を定期的にそぎ落とすことができれば、有難味をより感じやすくなる。
全ての事に感謝でき、自分は愛されているのだと感じれる。
今回の骨折で子供が背中を洗ってくれたり、妻は車で送り迎え、美味しいご飯を作ってくれて、お医者さんが手術してくれて、看護師さんは優しく看病してくれた。
そういう小さな部分から愛を感じとれること、また愛するというこが幸せなのだろう。