待つ
相手を待つことについて。
相手にはタイミングがある。
それに逆らうことなく、じっと待つこと。
例えばランチタイムで忙しい店内。
おしぼりとお水が中々出てこなくて
イライラして「まだですか?」とお店の人に聞いたことは
ないだろうか。
先日ランチタイムに入ったお店はとても繁盛しており、
ほぼ満席に近い状態で、店員さんは忙しく猫の手でも借りたいという様な状況だった。
自分が入店したときに店員さんは確かに「いらっしゃいませ!こちらの席にどうぞ!」と
と案内をしてくれたので、自分の存在は理解している。
空いているテーブルにはまだ下げ切れていない食器があり、
良く観察すると料理をする人が1人と接客の人が2人しかいなかった。
誰がどう見ても忙しいということが分かる。
3人の行動を見ていると、忙しい中で注文ミスがない様に連絡を取り合い、なるべく早く料理を提供することを心がけているのが分かった。
お店の3人は食べに来てくれたお客様のために自分の時間を使って、美味しい料理を食べてもらいたいという思いで忙しくフルに動き続けているのである。
注文ミスしないように、お互いがダブルチェックして確実に業務を遂行していっているのが分かるのに、なぜ待たされていることに対して不安を感じることがあるのだろうか。
なぜ待とうという選択肢がないのだろうか。
この忙しい状況の中で「まだですか?」と言ったら相手がより精神的に不安定な状態になるだろう。目の前にいる人は自分と同じ気持ちを持った人間である。
例えば自分が目の前の人の為に一生懸命やっているのに「早くしろ!」と言われたらどうだろうか。自分だったらイライラしてしまい、冷静さを失い、ミスをするかもしれない。
家に帰ったらぐったりして、「早くしろ!」と言われた場面が何度も心の中でリピート再生され、
イライラを取り切れず、夜も寝れなくなるかもしれない。
どうしても食べたい料理だったら、みんなは行列に並んだとしても愚痴を言わずに並ぶだろうし、遊園地の乗り物でも自分が乗りたいから、その気持ちを待つということと相殺したかのように平然と並ぶだろう。
早くしろと言った言葉は、マイナスであり、相手に刺さる。
そのマイナスは自分にも刺さることを知らない。
早くしろというのは自身がイライラしているからで、
自分の心は冷静ではない。そのような状態では店員さんや料理を作ってくれた人の有難味も感じれないし、美味しい料理の味も分からない、ただイライラしながら食べている感じになってしまうだろう。本来の幸せを感じることが出来ずランチ代も水の泡である。
分かっているのだから、待てばいいだけだ。
繁盛しているのだから、料理はおいしいだろうし、接客も良いに決まっている。
ゆっくり、自分の時間が来るまでただぼーっと待っとけば良い。
本来であれば、自分で食材を買ってきて家で自炊しなければいけないところを、お店にいけば、食材を買ってきてくれて、料理も勉強して腕を磨いてきたシェフが自分のために最高に上手い自慢料理を提供してくれるのだから、その後ろ姿を見ながら心でただ感謝をしながら待てば良いのだ。
子供に対しても早くしなさい!とか勉強しなさい!とかいうと大抵ダラダラ、いやいややっているのが分かる。子供は遊びが仕事だ。子供には子供のタイミングがある。
早くしなさいというと大人と同じようにイライラしているのが分かる。子供と大人を比べると、足の長さも体力も考える速さも全然違うのに、早くしろと言われても大人と同じように早く出来る訳がないのである。
何もしないというのではなく、先ほどのレストランの様に、こちらがして欲しいことをただ伝えるだけ、あとはゆっくり待てば良い。すると、子供は納得して勝手に自ら行動するのだ。
宿題をしなければならないこと、歯を磨かないと虫歯になること、おもちゃを片付けないといけないこと、9時には寝ないと朝ちゃんと起きれないこと。全部解っている。
全部解っているのだから、何もこちらが早くしろと言わなくてもただ子供に合わせて待てば良い。
一生懸命になってくれている仕事の取引先が、「なんとか形にしますので、出来るまでしばらく待って欲しい。出来たらこちらからご連絡します。」と言われたので「わかりました。」と答えた。
それから1週間、2週間、3週間と時間が過ぎていくにつれて、「本当に連絡してくるのかな?いつ連絡がくるのかな?」と不安になるだろう。でも、信頼してる取引先だから「どうなってますか?」とこちらから催促するような一報を入れることはしない。ただ、相手を待つだけ。
相手は出来るだけ早く良い知らせを伝えるために、毎日行動してくれている。このことが自分に見えていないだけだ。目に見えていない場所で私たちのために全力を尽くしてくれていることを感謝しながらただ待つだけで良い。